みんなのお寺誠信寺の住職ブログ

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お盆とは施しの期間!?

誠信寺は8月16日に盂蘭盆会(うらぼんえ)というお盆の法要をお勤めいたします。お盆と起源とされる『盂蘭盆経』(うらぼんきょう)には、お釈迦様のお弟子で神通第一の目連尊者のお話が記されています。

 目連尊者は神通力で亡き母親の様子を見ると、餓鬼道に堕ちて骨と皮だけの姿になっていました。そこで尊者は、食べ物を母に差し出しますが、口に入れようとすると火(炭)になってしまい食べることができません。そこで尊者はお釈迦様に救いを求めます。するとお釈迦様は、「あなたの母の罪は深く、あなた一人ではどうすることもできないから、自恣(じし)の日(※下欄参照)に仲間の僧達に食べ物などの施しをするように言われました。尊者がその通りにしたところ、母親は餓鬼の苦しみから解放されたのでした。

 そして、釈尊は弟子たちに自恣(じし)の日に、父母や先祖を偲びつつ、その恩情を思い、仲間の僧達に施しをするように説かれたのでした。

 

 盂蘭盆の「盆」とは最近の研究で食べ物を入れる鉢の意味であり、盂蘭盆とは「僧侶に差し出す食べ物を入れた鉢」という意味であると解釈されます。

 このように盂蘭盆経から本来のお盆のすがたを考えてみると、生かされていることや多くの恩情に感謝をし、僧達に施しをする期間といただくべきなのでしょう。

 

 僧とはお坊さんのことと言いたいところですが、仏教に帰依する仲間のことですから、お寺や信仰を共にする方々のことをいいます。

 このようなことから、お墓参りも結構ですが、お盆にはぜひお寺にお参りされ、先立っていかれたご先祖方を偲びつつ、お寺や同行の方々に施しをされてはいかがでしょうか?「お参りの方々にどうぞ」と美味しい御菓子や旬のものを提供されれば、きっと皆様が喜んでくださることでしょう。

 ご縁や恩を大切にする施しは、するものも受けるものも互いに喜びと豊かさをいただくことができます。

 それこそが、仏様の慈悲の心の実践であり、今は仏様になられたご先祖様方へ本当の供養といえるのだと思います。

 

 明日16日は当寺院の盂蘭盆会です!皆様からの尊い施し(ご支援)もお待ちしております!(^^)!

 

※インドの雨期の期間は安居(あんご)という僧侶が修行に励む期間で、その最終日に行われる儀式を自恣(じし)といいます。自恣では僧が安居の間に犯した罪を皆の前で告白し、許しを請います。そして多くの信者が訪れ、僧たちに施しをします。

 

孤独死を考える

お盆が近くなるとお納骨の問い合わせがいつもより多くなり、縁故者不明のお遺骨のご相談を受けることもあります。
 
 今日は近親者がいない方がお亡くなりになった場合の、葬送や納骨に関わる手続きや金銭面のことについて、私なりの考えを綴らせていただきます。
 
 縁故者がなく、お一人でお亡くなりになられた場合、自治体が喪主となり葬送を行うことがほとんどですが、稀に旧知の方が葬送をされる場合があります。
 
 その場合、金銭面での負担もあり、またトラブルにつながるケースもありますので注意が必要です。
 
 火葬をする際、必ず誰かが申請人になりますが、自治体以外の方が、申請人となる場合、後で近親者が出てくる可能性が本当にないのか、それによってトラブルになることがないか、十分に注意する必要があります。
 
 また、善意から葬送を行い、自治体等の合同墓に合葬してあげればよいと安易に考えることも問題があります。
 
 自治体の合同墓は、基本的に改葬に応じている場合が多く、火葬したばかりの遺骨は納骨できないことがあります。
 また、遺骨は合葬してしまえば、後から取り出すことができないため、本当に近親者がいないかを確認しなければならず、戸籍謄本から近親者を辿り地道に探すか、一度、一時預かりをしてくれる寺院などに預骨し、無縁墳墓等改葬広告を官報に掲載してもらい、一年間を経た後でなければ改葬することができません。
 
金銭面では、自治体から若干の給付金が出る場合があります。
  • 葬送給付金:葬送を行った方には自治体から給付金がでるケースがあります。(旭川市の場合は、故人が国民健康保険加入者であった場合、申請すれば葬送を行った方は2万円の給付金をもらえます)
  • 納骨給付金:自治体により出る場合も。(旭川市はありません)
 
このような給付金があるにせよ、その金額はごくわずかで、葬送執行者の負担金額を補うことは到底できません。
 
 近親者を探すために、火葬までの時間を伸ばせば伸ばすほど、ご遺体の維持処理にお金がかかりますし、探さずに火葬すればトラブルになることも考えられます。
 火葬後に近親者を探す場合、上記の通りの手段がありますが、官報に掲載する場合、凡そ6~7万円ほどの掲載料がかかりますし、寺院への一年の掲示も必要となるため、寺院側もそれなりの冥加金(手数料)をいただくことが考えられます。
 
 つまり、近親者不明の方の葬送を自治体以外の方が執り行うことは、たとえ善意であっても、相当な覚悟が必要であるということです。
 
 何とも世知辛いとしかいいようがありません。
お寺としては、ルールの中で出来る限り協力することはできますが、行政自体が現行のシステムを見直すか、給付金を増やす等の対策をする必要があると思います。
 
 加速する少子高齢化孤独死問題。皆さんはどう思われますか?
 

人は皆、国王である ~だからこそみんなのお寺でありたい~

今日のことば

 

 「人は皆、国王である」

 

ちょっとビックリするような言葉ですが、お経を読んでいて感じたことです。

 

お経には、よく王様が登場します。色々な王様がいますが、ここでは「思いのままに振舞うもの」という程の意味で解釈しておきます。

 

 私たちのご本尊である阿弥陀仏という仏様は、全てのものを一人も漏らさずに救いとると願われた仏様ですが、その仏様の救いを表すために、お経には阿弥陀仏の物語が説かれています。

 

 かつて阿弥陀仏は一人の国王でした。この場合の国王は、地位や名誉や財産などを求める人の世において、その国の頂点に立つものであり、人の欲を極めることのできるようなもののことです。(現実の国王は、そうでない場合もあります)

 

 その国王がある時、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏様に会います。世自在王仏はこの世において、思うがごとく人々を自在に救う仏様です。

 

 ここで人の欲を極めた国王が、人々を自在に救う王に出会ったということです。

この出会いによって国王は、世自在王仏のように成りたいと思い立ち、国を捨て、人の世の欲を極めることを捨て、人々を救うものになる歩みをはじめます。その時の名を法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)といいます。

 

 法蔵菩薩は全てのものを救いとるために、表現することも出来ないほどのとてつもなく長い時間考え、一切を救いとるという願いを起し、永遠の修行によって、その願いを実現することのできる南無阿弥陀仏という仏様になって衆生に至り届き、今まさに全てのものを救っておられると説かれます。

 

 ここで感じるのは、この世において欲を極めようとする国王の姿は、これは他の誰でもなく私自身のことを指すのだと思います。

 

 人は皆、自分の世界の中では、その頂点に立っています。自分自身の物語の中では必ず自分が主人公です。(※精神療法のナラティブを否定するのではありません)

 そして、何事も自分を中心として、善悪や損得、優劣を計り、自分こそが正しいと思いながら生き、自分に合わないものは切り捨てていきます。まさに王様です。

 

 その私が、少しずつですが、仏様の教えに出会って、人々と共にありたい、皆を救うものになりたいという生き方に転じた時、その生き方を菩薩というのだと思います。

 

 寺の住職というのは、寺の留守番役に過ぎません。けれども、ともすると住職は寺を持つ者であり、一国の主であると誤解をし、お寺を立派にすることが自分の仕事であり、それが自分のステータスであるように勘違いをすることがあります。

 

 それは、国王が成すことであり、決して菩薩のすることではありません。

お恥ずかしいことに、私にも少なからずそのような心があります。

 

 人々を自在に救うものになるのであれば、私自身が自在でなくてはなりません。

そのためには、法蔵菩薩のように地位も名誉も財産も捨て、もっと言えば社会を捨て、家族を捨て、国(寺)を捨てなければ菩薩にはなれないと言えます。

 

 私は袈裟衣を着けて僧侶の格好はしているけども、真の意味での僧侶ではなく、ましてや菩薩などでは到底ありません。(本来、僧侶とは、お寺さえも捨てたものをいうのだと思います。) 

 だから私は、私が留守番役をする誠信寺をみんなのお寺としてスタートすることにしました。

 ともすると、お預かりしているお寺を自分の持ち物のように考え、主(国王)のように振舞ってしまうような愚かしい私がいます。

 

 お寺とは、仏様に出会い、国王(私たち)が菩薩の道を訪ねていく場所です。皆と共にあることを聞き、自他がともに本当の意味でしあわせになることを願う場所です。

 

 今はただ、留守番役として、そのためのお寺を皆様と共につくっていきたいと思っています。

 だからお願いです。どうか皆さん、開かれたお寺「みんなのお寺」を共につくり、ご一緒に歩んではいただけませんか。

                            合 掌

 

 

 

 

 

 

 

 

今日のことば 

  人は去っても その人のほほえみは去らない

 

  人は去っても その人の言葉はさらない

 

  人は去っても その人のぬくもりは去らない

 

  人は去っても 拝むその手の中に還ってくる 

 

 私もお教えいただきました浄土真宗本願寺派の勧学(本願寺派僧侶の学階で最高位にあたる)中西智海和上の言葉です。

私がこのブログを始めるきっかけになった、とても大好きな言葉です。

日常のご縁の中で出会った、人のほほえみ、人の言葉、人のぬくもりを

このブログの中でご紹介していけたら良いなと思います。

「その人の言葉は去らない」 当にここに記していきます。