人は皆、国王である ~だからこそみんなのお寺でありたい~
今日のことば
「人は皆、国王である」
ちょっとビックリするような言葉ですが、お経を読んでいて感じたことです。
お経には、よく王様が登場します。色々な王様がいますが、ここでは「思いのままに振舞うもの」という程の意味で解釈しておきます。
私たちのご本尊である阿弥陀仏という仏様は、全てのものを一人も漏らさずに救いとると願われた仏様ですが、その仏様の救いを表すために、お経には阿弥陀仏の物語が説かれています。
かつて阿弥陀仏は一人の国王でした。この場合の国王は、地位や名誉や財産などを求める人の世において、その国の頂点に立つものであり、人の欲を極めることのできるようなもののことです。(現実の国王は、そうでない場合もあります)
その国王がある時、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏様に会います。世自在王仏はこの世において、思うがごとく人々を自在に救う仏様です。
ここで人の欲を極めた国王が、人々を自在に救う王に出会ったということです。
この出会いによって国王は、世自在王仏のように成りたいと思い立ち、国を捨て、人の世の欲を極めることを捨て、人々を救うものになる歩みをはじめます。その時の名を法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)といいます。
法蔵菩薩は全てのものを救いとるために、表現することも出来ないほどのとてつもなく長い時間考え、一切を救いとるという願いを起し、永遠の修行によって、その願いを実現することのできる南無阿弥陀仏という仏様になって衆生に至り届き、今まさに全てのものを救っておられると説かれます。
ここで感じるのは、この世において欲を極めようとする国王の姿は、これは他の誰でもなく私自身のことを指すのだと思います。
人は皆、自分の世界の中では、その頂点に立っています。自分自身の物語の中では必ず自分が主人公です。(※精神療法のナラティブを否定するのではありません)
そして、何事も自分を中心として、善悪や損得、優劣を計り、自分こそが正しいと思いながら生き、自分に合わないものは切り捨てていきます。まさに王様です。
その私が、少しずつですが、仏様の教えに出会って、人々と共にありたい、皆を救うものになりたいという生き方に転じた時、その生き方を菩薩というのだと思います。
寺の住職というのは、寺の留守番役に過ぎません。けれども、ともすると住職は寺を持つ者であり、一国の主であると誤解をし、お寺を立派にすることが自分の仕事であり、それが自分のステータスであるように勘違いをすることがあります。
それは、国王が成すことであり、決して菩薩のすることではありません。
お恥ずかしいことに、私にも少なからずそのような心があります。
人々を自在に救うものになるのであれば、私自身が自在でなくてはなりません。
そのためには、法蔵菩薩のように地位も名誉も財産も捨て、もっと言えば社会を捨て、家族を捨て、国(寺)を捨てなければ菩薩にはなれないと言えます。
私は袈裟衣を着けて僧侶の格好はしているけども、真の意味での僧侶ではなく、ましてや菩薩などでは到底ありません。(本来、僧侶とは、お寺さえも捨てたものをいうのだと思います。)
だから私は、私が留守番役をする誠信寺をみんなのお寺としてスタートすることにしました。
ともすると、お預かりしているお寺を自分の持ち物のように考え、主(国王)のように振舞ってしまうような愚かしい私がいます。
お寺とは、仏様に出会い、国王(私たち)が菩薩の道を訪ねていく場所です。皆と共にあることを聞き、自他がともに本当の意味でしあわせになることを願う場所です。
今はただ、留守番役として、そのためのお寺を皆様と共につくっていきたいと思っています。
だからお願いです。どうか皆さん、開かれたお寺「みんなのお寺」を共につくり、ご一緒に歩んではいただけませんか。
合 掌